63歳の自らの誕生日に寄せて

2017/02/05  
助産師を始めて三十数年が過ぎた・・・。最近やたら自分の辿ってきたルート(人生)が、自分をどう変えてきたのか?という事に興味がわいてきた。多分、『自分探し』という名前の旅が、人生なんだということに気付き、それが楽しくなってきたからだと思う。「悟り?」とでもいうのか?そんな事を思いつつ、自分にとって「節目」となってきたいくつかのことを記してみたくなった。
『現代版産婆』を目指してきた自分を振り返り自分へのプレゼントにしよう!

① 助産婦修行…それは、目指す産婆さんに出会う旅だった

子持ち新米助産婦
最初の5年間、無我夢中で先輩のお産に立会わせてもらっていた。時間が許す限り病棟に居残ってお産に関わろうとしていた。「先輩の技は自分で観て盗め!」とでも言われ、その使命を果たしたいと真剣に考えていた気がする。
これから「産婆の世界」に乗り出していく。ヒトのお産に関わるという『産婆の仕事をする』ための航海を始めるようなワクワク、ドキドキ感満載での船出だった。
その当時、私の勤務していた病院は、産科病棟(16人体制中、ナースは一人だけ)しかも、平均年齢は、50歳を超えていたと思われる。当然、腕に覚えのある「助産婦」と云うよりも「産婆さん」という呼び名の方がふさわしい先輩が多かった。

日中の勤務時間は緊張の連続だったが楽しかった。先輩の技術を垣間見てその技に感心し、少しでもその技を教えてもらおうと思っていた。
先輩の中に殊の外怖い先輩がいた。だが、その人の夜の顔は、怖いけれど信念に燃えていた。お産だけではなく、夜勤の時間帯には、すぐに産まれそうな産婦さんがいなければ、必ず、お産を終えたばかりのお母さんをひとりずつ詰所(=ナースセンター)に呼び、母乳ケアをする先輩は、「完母」が、育児のあるべき姿だと背中で教えてくれた。

母乳ケアの原点
私は、母乳が出始めるまでの辛さを知っている。「この辛さに耐える」ことでしか完母への道は開かれない!という先輩の教えを忠実に信じ、守っていた。だから、何の疑問もなくこの拷問のような呼び出しケアを毎晩のように繰り返していた。
その技術が今、母乳育児をすすめる中でとても役に立っている。多くの出産直後のお母さんの乳房をケアさせてもらったことが今に繋がっていると感じるのだ。

助産婦五年目にしての出産体験
また、助産師五年目にして授かった第三子を大先輩の処での出産(助産院出産)し、ノーリス(会陰の傷なし)という小さなことが、どんなに安心して便座に座れるか!を実感できた。三度目にして本当にトイレが怖くない快適な産後生活だった。
しかし、また、第三子の後陣痛は並の辛さではなく、脂汗をかいて、歯を食いしばっての授乳をも体験したのだった。更に、もともと持病だった片頭痛が、出産を契機にか?ひどく悪化し、産後二週間後には起き上がることも出来なくなった。地元の整体師の方に大晦日の往診を頼みこんだ。頭を挿げ替えたいほどの「脈打つ痛み」が、右後頭部から眼窩にかけて襲ってくる!その頻度が年末にかけてどんどん増し、もうどうしてよいのかが分からなくなった時期もあった。
(その後、半年後の発作時期、なんと1週間で体重が五キロも減るという状態になった時「藁にもすがりたい想い」を救ってくださったのは、ひょんなことで出会った「何やら医学」を習得された仙人のような導師だった。施術を3回受けたところで、偏頭痛とは完璧に縁が切れ、今日に至っている!…そして、これが後々の私の産婆信念における「出産には人智及ばぬ何かが存在する」という考えに至るまでの大きな影響を与えているのだと思う)

② 現代版産婆を目指す私の修行は、産婆志向に拍車をかけた

産休からの復帰
産後復帰は、出産後二か月、産休明けと同時に新病棟の開設で、乳飲み子の存在を忘れてしまうほど雑務を抱え込んでいた時期がある。幾度も幾度も、院内保育所の保母さんたちに「お迎えの時間」を忘れ、多大なる迷惑をおかけした。
また、勿論、第三子(未だうまれて日の浅い我が子)にも「申しわけない!」と心の中で謝り続ける日々だった。長男、次男も小学校の低学年と保育園の年長さんとはいえ、まだまだ、母を必要とする時期だったはずだ。思い出すたび「感謝の涙」がわいてくる。
「僕たち、よくグレなかったでしょ!」と後になって、三人の息子たちそれぞれに言われて返す言葉がなかった。現在、要介護の母の惜しみない努力と心からの協力、そして、夫の無言での理解、協力がなければできなかった事だとつくづく思いかえしては感謝の思いで一杯になる。

脱勤務助産婦
そんな中で、待ちに待った配置転換希望が通ったのは、入職後9年目の春だった。配置転換希望の動機については、入職後、3年目から希望していたことである。一つは、学生との関わりが好きな事。現在も助産院での学生受け入れは積極的にしているが、根っこは、シンプルに学生が好きという事。そして、もう一つは、やや不純な動機がと思われるかもしれないが、お母さんとのコネクションを生涯続けたいという私自身の想い。
例えば、お産を済ませたお母さんから声をかけられたり、挨拶されたり、街で出会った親子連れに赤ちゃんを抱かせてもらうことがあっても、病院内の出産現場でのノーメイクの産婦さんとおしゃれな赤ちゃん連れのお母さんは結び付かないのだ。 要は、出産が初対面だけでは、なかなか信頼関係を深く結ぶことが出来ず、私自身も記憶が曖昧になってしまっている。この「残念感」が私の病院勤務中での最大の対処すべき課題だと感じていた。
そして、それが9年目にして適った助産師学校勤務(配置転換)への動機だった。助産師教員になってもっと深く教え子を通じて、お母さんと繋がれないものだろうか?!という。決してそれがどうこうというものではなく、私のひとつながり志向は、「生涯の財産」だという考えだから。これが、私の暑苦しさの原点なのですね!

先輩助産の魅力
暑苦しい性格の私(実は、他人に云われて、やっと自身の暑苦しさを自覚したのだ。本人は、極めてクールな人間と、ずっと自負してきた。それは、あまり正しく自分を観ていない事だったと気付いた、37歳にしてやっと。)
昔ながらの産婆さんの「お産の話」を聴けるのが好きで、当時助産婦会の諸先輩の話を聴ける機会には、万事繰り合わせ、欠かさず参加していた。
先輩からの口述は今思えば助産師技術大辞典になるほど大きな財産であった。教科書ではなく、実際の経験が経験値としてどんなに価値あるものかがよく理解できる。増々、生のモノが持つ重みをこれからは伝える年齢になったのだと思う。

例えば、5キロ近くの胎児を会陰に無理な力を懸けずに取り上げるには、充分に上肩を出してから、(肩を)まっすぐに下へ押し下げると、胎児が軟産道から抜け出せる・・・。
実際に内反の現場に立会ったしまった時も、即座に現場での技術伝承を受けた。子宮頚管部を圧迫して子宮内反を防ぐ方法だった・・・。
また、もし、骨盤位の胎児に遭遇した時の、ファイシストメリーで分娩介助、「横八の字」の手技を使って、赤ちゃんを取り上げる方法を手を取り足取り教えてもらった。言葉を添えて教えて貰った…という具合だった。

大好きな大先輩の手
助産婦6年目頃から、第三子を取り上げて下さった産婆さんの手の温もりがどうしても忘れられず、やっぱり「これしかない!」と、つよく開業を意識し始めていた。また、実は、私が、助産師学校に在籍していた時期に開業助産師の故三森孔子さんに出会ったことも私の産婆人生での「開業志向への大きな核」になっていたのだ。私にとって、二人の息子を出産しながらも、出産は恐怖でしかなく、陣痛の痛みにも耐えられず泣き叫んでの体験は、ある意味トラウマになっていた。二回の出産体験は、自身が助産師を生業にするには適さない人、或いは、程遠く、足踏みをせざるを得ないと思わせる原因に思えていた。

憧れの大先輩の技
三森孔子さんの助産院で初めて立会った自然な出産「ラマーズ法による出産」とは、「胎児が、自分の意志を母にきちんと伝え、母がそれに応えているようなお産だった。
母と胎児が協同して、陣痛をうまく乗り切り、母にとって、一番無理の無いように胎児がその頭部の丸みをうまく適合させ、産道をゆっくり充分に拡張させ、母児の呼吸のひとつひとつを無駄なく、タイミングを合わせて進行していくのだ。  
胎児は、母の子宮という居場所から丁寧にこの世の中へと送り出してもらって生まれてきた!という感じが、この世に登場した時の姿だった。
いわゆる「産声」という最初の呼吸を切り替えるための一声以外、泣きもせず、母のおなかに心地良く乗っけてもらえている姿は、何とも愛おしく、周りをほわほわとした湯気が立ち上るような不思議な世界に包み込んでくれた。目に見えない温かな空気が赤ちゃんになったばかりのこの世に生まれた小さな人を包んでいた。

そして、この瞬間、私は「生涯、生業として出来る仕事はこれだ!」と目からうろこが落ちたというような、いえ、そんな言葉よりもむしろ、雷に打たれた!というぐらい強い表現の方がぴったりすると云い直したい衝撃を感じていたのだ。

自己責任の覚悟
更にもう一つ、助産師学校での教員研修期間中(夏休み)に初めての海外を体験した。今まで暮らしてきた日本の安全で安心な生活空間からは考えられないところに来てしまった。治安も生活そのものの豊かさとは程遠い世界(南半球のボリビア訪問)に足を踏み入れたのだという感覚をもった。その時に緊張感は、まるでこちらに向けられた銃口が、今にも火を噴きそうな瞬間もあった。乾いたパンパンという音を何度も耳にした独立記念日というものの意味を身体中で感じた。

そして、その時、私は、私自身、自分で決めたこと(海外行)を自分で行動している。自分の身の危険を冒してまでも地球の裏側に来ていること自体、全て自分の責任で、その責任には自分で応えるしかないのだと強く自覚することが出来た。
自己責任の取り方を真剣に学んだ南米ボリビアでの生活だった。
この南米の旅の教訓から得たものは、出産をするチャンスを持つ性である女性の強さの根底にある「産み出す力」のことをよく『いのちを張る』と云うことがあるが、それが、如何に納得のいく表現であるかを理解できる様になったことである。

理論と実践の間
増々自然な出産に魅せられた私は、臨地実習における矛盾に悩んだ。学生達は理論的な知識が、実際の出産現場では、殆ど生かされない事への疑問を体験しながら助産師への道を目指すのだ。理論上、自然な分娩では、女性の生殖機能としての子宮の収縮による胎児娩出であり、産道を軟産道として胎児を無傷で通過させることが出来るはずだ。
帝王切開の適応になる「児頭骨盤不均衡」に対しても、理論上の手術の確率を5%ぐらいまでにとどめられるよう仕組まれている。母の骨産道と胎児の頭頂骨(大泉門)の応形機能の素晴らしさは、如何にうまく、阿吽の呼吸を駆使することにより、考えられないほどの無理難題をクリアしてしまうのだ。実に長い時間をかけて経腟分娩という自然な出産を見せてくれることも多かった。

開業助産師としての経験を次に書き続けたい。

現在の出産方法について次回へ。つづく。長々とありがとうございました。また、この続きを書かせてもらおうと思っています。よろしくお願い致します。                   
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